出雲国風土記とは何か
「風土記」とは、1300年前の奈良時代。和銅6年(713年)に
・諸国の地名に好い字を付けよ
・①諸国で採れる銀や銅。動植物の種類
②土地の肥沃具合
③山や川、原野の名前の由来
④諸国に伝わる伝承や珍しい話
①~④を記して報告せよ
という命令が出されました。
そうして各地で編纂されたのが、今に伝わる風土記です。
今風に言うと、「国勢調査報告書」でしょうか。
和銅3年(712年)に古事記、養老4年(720年)に日本書紀という天皇の支配、国の成り立ちをまとめた書物が歴史書として成立しており、諸国の国勢を報告を求める風土記の官命は、律令制の中央集権的官僚支配のためだったり、大陸や朝鮮との国交を踏まえての国家意識からの一連の流れと言えるでしょう。
ものすごく簡単に言うと「日本凄いでしょ! 大和イケてるよね! ね? ね?」っていう全方位アピールですね。
中でも「出雲国風土記」は、ほぼ完本の状態で今日に残されてきました。
奈良時代の風土を今に伝える貴重な資料と言えます。
「出雲国風土記」には、やや独自な特徴があります。
奈良時代にも、公文書には「公式令」という様式の決まりがあり、常陸国風土記などにはこの決まりに沿って上申文書の書き出しで書かれています。しかし、出雲国風土記には、書き出し文も巻末も、この書式はありません。
更に、風土記は大和からの命令による行政事業なので、他の国では都から来た役人(国司)が編集責任者になるのですが、出雲国風土記は編集責任者を国司ではなく、国造が担っています。
当時の出雲国の国造は、出雲臣広島という人物で、意宇郡(現在の島根県松江市南部から安来市の辺り)の郡司でもありました。また、この出雲臣広島は、出雲大社の千家家、北島家へと繋がる出雲国の有力氏族です。
何故、責任者が国司ではなく出雲国造が担っていたのかはわかっていませんが、大化の改新以降、国造制が廃止となった後も、出雲臣は郡司と国造の兼帯を特別に得続けていたので、出雲国は、中央から注目されていたと考えられます。
「出雲国風土記」の内容ですが。
巻首の総記(国の大きさ、名前の由来、神社の数、郡郷の数)に始まり、各郡別(9郡)の詳細な報告書(地名の由来にまつわる昔話、寺院神社、特産品、生息する動植物、どこにどんな土地があるか)のまとめ、巻末の軍事に関する記述、最後に編集者と編集責任者の署名。という構成で、約17.000文字で書かれています。
風土記は「国勢調査報告書」と説明しましたが、ちょっと訂正します。
ごめん。る〇ぶだったわ。
実際、出雲国風土記の写本を手に出雲に訪れ、研究されている学者さんが古来より沢山いらっしゃるので、もはや、奈良時代のる〇ぶ。もしくは、奈ふ良時代のこと〇っぷ。
出雲国風土記の面白さの一つに、古事記や日本書紀などには記されていない数多くの神話や伝承があります。
当ブログでは、そんな伝承や神話たちを、古代出雲で語り継いできた語部たちや古老のように、私、来海が現代人らしく文明の利器をフル活用しながらYouTubeと並行して紹介していきます。
一話目の神話は「出雲国風土記・意宇郡」より『国引き神話』をYouTube(https://youtube.com/@kimachizm?si=n28SX62D9KN05E_U)にて配信予定です。
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次回のブログでは、神在祭が近付いて来たので、その辺のお話を紹介します。
それでは、また。
だんだん。
参考文献
・島根県立古代出雲博物館展示ガイド